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無視されたりきつく当たられたりすると胸がじんわりと締め付けられた。ヒステリックな喋り方をする女性のお客さんと相対しているときにも胸が苦しくなった。やっぱりああいう人は苦手なのだと思った。

忙しくなるにつれ、昨日と同じように僕だけ暗く冷たい場所に沈んでいった。「もうダメかもしれないです(笑)」という声が無意識に絞り出すように出てきた。それを聞くと店長は黙り込んだ。僕は繰り返した。「もうダメかもしれないです(笑)」。すると何かが事切れたように身体が痺れ始めた。水圧が徐々に身体を末端から蝕んでいるのだ。ヘルプで来ていた他店の店長に身体が痺れてきたことを伝え、白いビニール袋を口に当てた。なけなしの救命ポンプだ。キッチンの隅で蹲ってぼんやりと沈潜してゆく意識の中、自分に向けてしきりに「大丈夫」と声を掛けた。末端の痺れが治まり、もう大丈夫だろうかと立ち上がった。けれど世界は依然あまりに不安定で、僕はまた寒い場所で指先の皮膚感覚をチリチリと摩耗させていた。

店長が他店の店長に怒られていた。僕が死にそうなのに料理を運ばないことを理由に。何度も治まりかけては立とうとして駄目にした。自分のことだけを考えようと何度も言い聞かせて定めようとしては、ホールにいる人間の声や忙しなく働く店長達のことに意識が持って行かれた。やがて僕は新たな生存戦略を取ることにした。お父さんが僕の背中をさすりながら「大丈夫だよ」と言った。いつも一緒にいながらも密かに憧れていたあの子が頭を撫でてくれた。親よりも親らしく関わってくれている人が「落ち着けよ。大丈夫だよ。」と背中をさすった。あるひとは過ぎ去り、あるひとは今なお僕の元に留まっている。一貫しているのは、僕にとって大切な人たちだということだ。そんな人達に囲まれているうちに、温もりが胸に留まっていくのを感じた。それでもまだ、立ち上がろうとすると苦しくなった。慌てて親よりも親らしい人や毎日一緒にいたあの子を思い出そうとした。でも彼らは薄膜を隔てた先で霞む蜃気楼で、すぐに不安に掻き消されてしまった。それでもなんとか、この不安や苦しさこそ蜃気楼であり、深呼吸で触れたら掻き消えてゆくものだと信じていると、また彼らを思い描くことができた。もう二度と会えないお父さんや、僕の元から去っていた彼女にばかり頼るのは良くない気がして、親よりも親らしい威厳と優しさを湛えた人や、いつも一緒にいたあの子、直接関わることは無くとも僕を成長させてくれたあの人のこと考えようと思った。

忙しない気配に囲まれたキッチンの隅にいてはいつまでも水底から這い上がれそうになかった。店長に言って休憩室に行き、コートを羽織って更衣室の床に身体を投げた。苦しくなってからずっと、横になって胎児のように丸くなりたいと思っていた。これまでもそうすることで一番落ち着くことができたからだ。やがて大切な誰かのことを思い描くことすらしなくなっている間に、さっきまであんなに昂ぶっていた心拍もだいぶ落ち着いたものになっていた。

立ち上がってもすっかり平気になってから仕事に戻った。たくさん好きな人達に大丈夫だと言ってもらったからか、愛されて育ってきた人のようにその後の精神は安定していた。